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宇都宮地方裁判所 昭和36年(わ)265号 判決 1969年2月28日

主文

被告人北原を禁錮一〇月に、

同早乙女を禁錮八月に、それぞれ処する。

ただし、被告人両名について、この裁判の確定する日から三年間右の各刑の執行を猶予する。

訴訟費用はこれを平分しその二分の一ずつを各被告人の負担とする。

理由

第一被告人両名の経歴<省略>

第一罪となるべき事実

被告人両名は、いずれも、宗教法人輪王寺の職員である承仕として、同寺の所有にかかる、日光市山内二、三〇一番地所在の前記薬師堂において、その参拝観光客を案内するほか、重要文化財である右の薬師堂およびその境内における火災の予防ならびに右堂内に安置された仏像その他の薬師堂付属施設の毀損を防止する等の業務に従事していたものであるが、

被告人北原は、昭和三六年三月一五日、右薬師堂に勤務中、午後零時ごろから同二時三〇分ころまでの間に同堂内陣内の職員控室にもうけられた炬燵内の炭火の火力を補うため同室に置いてあつたナショナル六〇〇ワット電熱器(昭和三七年押第六〇号の四、以下本件電熱器というときはこれをさす)を取り出し、みずからこれを右の炬燵の中に置いて前記職員控室に隣接する男子更衣室入口付近に取り付けられたコンセントに右電熱器のコードを差し込んでこれに通電したのち、参観客の来ない合間を利用して他の同僚らとともに右炬燵で暖をとりながら花札遊びに興じ、他方被告人早乙女もまた同日右堂内において勤務中、その勤務の合間を利用して前記の花札遊びに加わるうち、同日午後三時ごろ、右炬燵に足を入れようとして、かけてあつた毛布をめくつてその炬燵櫓の内側を覗いた際、本件電熱器が前記のようにその中に入れられ通電使用されていることに気付いたが、いずれも右花札遊びを続けるうち、同日午後三時五〇分ごろにいたり、被告人ら職員は、右薬師堂が通常午後四時ころをもつて退出閉鎖の時刻と定められ、同時刻ごろには同堂への出入口である東照宮の表門が閉じられる関係上これに遅れぬよう右花札遊びを終えたのち、急遽退出するため、前記職員控室の跡片付けとして、

先ず、被告人北原においてみずから通電使用した本件電熱器の電源を切つてこれを片付けて退出しようとしたのであるが、右電熱器にはまだ高度の余熱が残存し、その熱盤が可燃物に接触すれば右可燃物が燻焼し発火する虞が多分に存したのであるから、かような場合、同被告人としては右電熱器を可燃物と接触する虞のない安全な場所に置くかまたは右電熱器の余熱が、接触する可燃物を燃焼せしめる虞のない安全な温度にまで降下したことを確認したうえ、同堂を退出し、もつて火災の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、退出を急ぐあまりに右の点に思いをいたさず、通電中の本件電熱器を前記炬燵内より取り出し、そのコードをコンセントから外して電源を切るや直ちに、職員らが平素退堂に際し座布団を積み重ね取り片付けて置く場所になつており、同被告人もこのことを熟知していた前記控室北西隅の畳の上にまだ高度の余熱の現存する右電熱器を漫然放置したまま退出し、

次いで、被告人早乙女において右控室の跡片付けをするため、その場にあつた木綿皮綿入れ座布団(昭和三七年押第六〇号の五)を同室北西隅に片付けようとしたのであるが、同所には本件電熱器が置いてあり、その熱盤に右座布団が接触すればその余熱によりこれを燻焼して発火にいたる虞が多分にあつたのであるから、前記のように右電熱器が通電使用されていたことを知つていた同被告人としては、このような場合右座布団を片付けるに際し、座布団が右電熱器の露出した熱盤に接触すればその余熱により座布団を燻焼し、それによつて全職員の退堂した無人の堂内において火を発する虞のあることに留意し、そのようなことがないよう右電熱器の余熱の有無を確認し、若し余熱が残存するならこれとの接触を来さぬよう布団を片付ける位置やその状態に意を用いてこれと右電熱器との接触を避けるため万全の措置を講じ、もつて右接触による火災の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、退堂を急ぐあまり右のような防火についての配慮を欠いて、高度の余熱の残存する右電熱器の熱盤を覆うように前記座布団二枚ずつ計四枚を順次その上に漫然積み重ねて退出したため、

ここに被告人両名の右の各過失の競合により、同日午後四時ごろから同日午後七時ごろまでの間に、本件電熱器の露出した熱盤の余熱によつて右座布団が順次燻焼して火を発し、その火は右控室の畳壁板等に燃え移つて、ついに堂内全域に及び、よつて、人の現住しない前記薬師堂(木造入母屋向拝付朱塗銅板葺建坪四五八平方メートル)の内部かほぼ全域にわたり燃焼炭化し、もつてこれを焼燬するに至らしめたものである。

第三証拠の標目<省略>

第四事実認定の理由

一本件火災の概要

本件薬師堂の管理は明治初年の神仏分離以来宗教法人輪王寺に属し、同寺において任命する執行一名が所属の承仕(本件火災発生当時六名)寺務員(同じく三名)らの職員を指揮監督して右堂宇の維持・管理にあたつてきたこと、同堂の内陣内は、その南西隅の広さ約六平方メートルの一画を男子職員の更衣室に充て、その東側に隣接する広さ約八平方メートルの一画に、間仕切り板、敷居、引戸等で区画し、杉材等を材料として在来の床面に床や天井を張り、畳を敷くなどして築造した箱形の造作を付加して、これを職員の控室として用いてきたこと、例年一一月から翌年三月下旬ごろまでの寒冷期には職員らは湯沸し、火熾し、採暖等のため、薬師堂外陣内の受付ボックスで六〇〇ワット電気行火一個を、内陣内の前記男子更衣室で東芝製一二〇〇ワット電熱器(昭和三七年押第六〇号の一九)、アルコールバーナー各一個を使用するほか、前記職員控室の中央部あたりに設けた掘り炬燵の中に火鉢一個(昭和三七年押第六〇号の九)を入れ、この内に炭火を置いて暖を取り、なお炭火の補助として昭和三四年ころから本件電熱器を右控室内に備え、必要に応じてこれを前記炬燵内に入れて使用していたこと被告人両名が、いずれも輪王寺の承仕として、昭和三六年三月一五日に、他の職員五名とともに、右薬師堂内において勤務したのち同日午後四時ころ勤務を終えて右堂内より退出したこと、および同日午後七時五分ごろ右薬師堂に装置された東照宮社務所内夜警詰所に通ずる火災報知器が鳴り出し、まもなく同所からかけつけた夜警の高橋栄次郎が右薬師堂の南側付近に白煙が出ているのを認めたことから本件火災の発生したことが発見され、その後消防隊が到着して消火につとめたが、翌一六日午前九時ごろまで燃え続けた結果、結局右火災により右薬師堂内部がほぼ全域にわたり燃焼炭化しあるいは一部が焼失したこと、および昭和三六年三月一六日および翌一七日に司法警察員が行なつた本件火災現場の実況見分および検証に際し、内陣等の焼跡から前記各押収物件が発見されていることは、いずれも「証拠の標目」掲記の各証拠により、認定の理由を示すまでもなく、明白である。

二本件火災の出火箇所

(一)  先ず薬師堂の焼燬状況を見るに、<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

すなわち、

1 本件火災による薬師堂の焼燬範囲はほぼ同堂の内部に限られ、外部は唐戸・連子窓の上部または屋根・庇・外廊の一部に明らかに内部の火気により焼燬したと認められる部分のあるほかは焼損の痕跡が見られないこと、

2 他方内部は全域にわたつて焼損したうちにも特に内陣南側の焼燬程度が甚だしく、わけても同所にあつた前記職員控室の北側一帯は須弥壇南側、その前面の上部、付近の各円柱、右控室北側境の敷居、敷居上のレール等右控室に近いものほどあるいは強く燃焼炭化し、あるいは熔断し、あるいは床下に焼け抜けた燻焼痕を残すなど火力の影響が最も著しかつたこと。

3 昭和三六年三月一七日に施行された司法警察員による本件火災現場の検証に際し、右控室北辺付近から、本件電熱器が発見されたところ、その位置は右控室の北側間仕切り板から南方に約三センチメートル。同室西側の間仕切り板から東方に約三〇センチメートルの同室北西隅に相当し、またその発見時の状況は、いずれも焼損の痕跡を示しつつ、その熱盤上にコードの一部がゆるく二、三条に巻かれて載り、さらにその上部に六枚の座布団が下部の北西端の部分で右電熱器を覆い、これに密着した状態で積み重ねられ、しかも右座布団、その周辺の畳、さらに右畳や畳下の床板と敷居との接着面および右敷居とその下の漆塗り床板との接着面などが深く燻焼炭化していたこと。

次に本件火災発見時の状況をみるに、<証拠>によれば、

4 火災当日の午後七時五分ころ東照宮の夜警詰所で火災報知器の出火信号を聞いた同宮夜警の高橋栄次郎、尾田啓三郎の両名が午後七時一五分ごろまでに前後して薬師堂にかけつけた際には、本件火災は前記控室南側の連子窓を通して白煙や炎が堂外に吸き出し、次いで日光市の消防隊が消火活動を開始した七時二八分ごろには同堂西南隅の控室北辺の部分が最も強く燃えており、その後火勢は広く堂内全域に波及するに至つたこと。

がそれぞれ認められる。

(二)  以上の事実、特に控室北辺付近が強く燃焼炭化し、しかも前記電熱器上の座布団やその付近の畳、床板と敷居との接着面等に、長時間かつ徐々に加熱を受けたことにより生ずる燻焼の形跡が存在することなどを考え合わせると、前記のように右控室が他の部分に比し比較的燃え易い造作から成つていることおよびコードの状態から本件電熱器が通電状態になかつたことか明らかであるにもかかわらず、なお本件火災が右控室北辺付近から、長時間にわたる燻焼の結果、出火したものであることおよび右出火が同所にあつた本件電熱器に起因するかまたは少なくともこれに直接関係して発生したことを疑うに足るものといわざるを得ない。

三本件火災の出火原因

(一)  ここで先ず薬師堂内の焼跡から発見された、本件電熱器以外の各火器につきひととおりこれらからの出火の可能性の有無を点検すると、<証拠>によれば、当日薬師堂では、受付ボックス内で前記六〇〇ワット電気行火、職員控室で前記炬燵用の炭火、男子更衣室で前記湯沸し用一二〇〇ワット電熱器と前記アルコールバーナーがそれぞれ使用され、なお、職員控室では男子職員らがライター、灰皿を用いて喫煙をしていたが、いずれも同日の退堂時には手落ちなく跡始末されていたことが確かめられる。以上の事実と、<証拠>により認められる、前記発見時における以上の各火器等の状態やその周囲の焼燬状況を考え合わせると、本件火災はこれらの各火器に起因して発生したことを疑うに足る形跡は全く存在しなかつたことが明らかである。

最後に放火および漏電による出火の可能性について一言すると、前認定のように、本件火災は薬師堂の内部から出火したものであること。<証拠>により明らかなとおり、本件火災発見当時薬師堂の各出入口の扉は施錠されてあつたことおよび前掲各証拠により認められる、同堂内部の焼燬状況には放火の疑いを容れ得るような形跡は全く見当らなかつたことを総合すると、右放火の可能性は容易に否定され得るところであり、さらに<証拠>によれば、薬師堂の配線・取り付電灯・コンセント部には異常や不備はなく、また前記安斎実は当日退堂の際同堂外廊南西隅にあつたコンネクターのコンセントを外して堂内各配線の電源を切つたことが認められるから、本件火災には漏電による出火の疑いをさしはさむ余地もないものといわねばならない。

(二)  そこで進んで本件電熱器と本件火災の出火原因との関係を究明するため、本件電熱器がはたして右出火直前に使用されたか否かの点および使用されたとすればその状況如何を検討するに、

1 <証拠>を総合すると、

本件火災当日、薬師堂には、男子職員の安斎実、村田豊作、福田久男および被告人両名、女子職員の神山光子、鈴木節子の合計七名が出勤したが、この日は参観客が少なかつたこともあつて、右男子職員五名は、午前一〇時ごろから午後四時近くまでの間仕事のない時に前記控室の炬燵を囲んで繰り返し馬鹿花と称される花札遊びを行なつたこと、

同人らが午後右花札遊びを始めたときの各座席は、右炬燵の北側に福田、南側に村田、東側の北寄りに安斎、東側の南寄りに被告人北原、西側に被告人早乙女がそれぞれ座り、以後この位置は同人らが参観客の案内のため一時座を立つた後も変更はなかつたこと、

この日午後零時ころと午後二時三〇分ごろの二回にわたり参観の団体客が来堂し、その際、右職員の大部分が座を立つてその応待にあたつたこと、

控室の炬燵には、前記鈴木節子が同日朝出勤直後にアルコールバーナーで熾した炭火を入れ、午後零時から一時ごろまので間にさらにこれに炭を継ぎ足したこと。

がそれぞれ認められる。

2 そして以上の状況のもとで、はたして被告人北原が本件電熱器を使用したか否かを見るに、この点に関する証拠として、

被告人北原の司法警察員および検察官(昭和三六年四月二二日付、同年一一月二二日付、同月二三日付検二号)に対する各供述調書には、

当日午後一時ごろ、団体客が来堂し、控室内にいた職員が被告人北原ひとりを残してその案内のために退出した際、同被告人は、火鉢に炭火を入れただけの炬燵では足許が寒いと感じ、午後から続けるつもりの花札遊びに備えるため、同室内北西隅付近に置いてあつた本件電熱器を取り、これを同被告人の座席の手前にあたる炬燵内南東隅に入れ、そのコードを男子更衣室の入口にあるコンセントに差し込んで通電した。

その直後、同被告人も控室を出て前記団体客の応待にあたり、それから約二〇分経つた後控室に引き返した。

という趣旨の供述記載があり、

また被告人早乙女の検察官に対する昭和三六年四月二〇日付および同年一一月二二日付各供述調書には、

当日午後三時ころ、被告人早乙女は、そのころ来堂していた団体客の案内を終えて控室に引き返し、炬燵に入る際に、足を入れようとして、その中を覗いたところ、その反対側(東側)に、半分位が火鉢の陰になつて電熱器が置いてありその熱盤か薄赤くなつているのが見えた。という趣旨の供述記載がある。

ところで、右各供述記載のうち被告人北原の「団体客が午後一時ごろ来堂した」と述べている点については、前記認定事実と多少の喰い違いがあるけれども、その他の部分については矛盾や喰い違いはなく、また<証拠>により明らかなとおり、右各供述につき被告人らが取調べに際し取調官から脅迫を受けるなどその任意性を疑うべきなんらの事由もないこと、被告人両名とも約九カ月あまりにおよぶ本件被疑事件の捜査期間中身柄不拘束のまま数回にわたり行なわれた司法警察員および検察官の取調べに対し、ほぼ一貫して前記同趣旨の供述を続けていることを考え合わせると、前記喰い違いの点を除いては、いずれもこれを信用するに足るものである。

よつて右各証拠、および司法警察員作成の検証調書にもとづき、被告人北原は前記団体客来堂の機会に控室北西隅から本件電熱器を取つて、これを同被告人の前記座席の手前にあたる炬燵内の南東隅の前記火鉢の脇に置き、そのコード(長さ1.8メートル)のプラグを前記更衣室入口のコンセントに差し込んで通電し、本件電熱器の使用を開始したこと、および被告人早乙女は、同日午後三時ごろ前記引用の同被告人の供述記載にあるような経過により本件電熱器が通電使用されていたことを知つたことをそれぞれ認めることができる。

そして被告人北原が本件電熱器の使用を開始した時刻については、それが少なくとも団体客の来堂の機会になされたものであることは右認定により明らかであるが、進んで前認定の、午後零時ごろまたは午後二時三〇分ごろの二回にわたる来堂時刻のうちのいずれの場合であつたかについては、同被告人自身は、捜査段階において一貫して、右来堂時刻すなわち本件電熱器の使用開始時刻は午後一時ごろであつた旨供述していることは同被告人の前記各供述調書により明らかである。しかし右時刻は認定の団体客の来堂時刻のいずれとも多少の喰い違いが認められ、これをもつて同被告人が本件電熱器の使用を開始したのが前記二回にわたる団体客来堂の場合のいずれであつたかを決することはできない。そして他にこの点を明らかにし得る証拠はないから、結局被告人北原が本件電熱器の使用を開始した時刻は、小なくとも午後零時ころから午後二時三〇分ころに至る間の時刻と認めるほかはない。

3 さらにその後被告人らが退堂に際し、本件電熱器および座布団を片付けた状況を見るに、

<証拠>を総合すると、次のような事実が認められる。

前記男子職員のうち、村田豊作、福田久男および被告人北原の三名は、最後まで花札遊びを続け、午後三時四五分ないし五〇分ごろ、右遊びを終了したこと、右終了前に他の職員らは、先に更衣室での着換えや他の部屋の跡片付けにとりかかり、被告人北原らの右遊びが終つた後手分けして控室内の跡片付けをも始めたこと。

花札遊びを終えた前記三名のうち、村田、福田の両名は着換えのために控室から男子更衣室に立ち去り、他万被告人北原は、なお控室に残つて、炬燵内から通電中の本件電熱器の把手を持つてこれを取り出し、控室南西隅付近にある右更衣室入口南側のコンセントより右電熱器のコードを外して電源を切つた後、右電熱器を控室北西隅に置いてその上に右コードをまとめて載せ、直ちに着換えのため右更衣室に立ち去つたこと。

被告人早乙女は、更衣室で着換えを済ませてから控室に入り、なお続けられている前記花札遊びの模様を傍観していたか、その終了直前、一旦鼻紙をとるために更衣室に行き、さらに控室の跡片付けをするために同室に引き返したこと、その際同被告人は前記更衣室内において花札遊びを終えて右控室から引きあげてきた前記村田、福田と出会い、さらに前記控室に引き返す途中更衣室入口付近で、右電熱器の片付けを終えて更衣室に入つてくる前記被告人北原とすれちがつたこと、同被告人は控室に引き返して直ちに炬燵の南側や西側付近にあつた座布団二枚を取つて、これを平素座布団を片付けて置く場所である同室北西隅付近に積み重ねようとした際、同所に本件電熱器が置かれてあるのに気付いたが、右電熱器がその直前まで使用されていたため高度の余熱が残存するのにこのことを顧慮しないまま、電熱器の熱盤に余熱があかどうかたしかめず、また右電熱器と座布団とが接触することにも注意を払うことなく、漫然右控室北西隅の前記本件電熱器の所在場所にこれを積み重ねたため右座布団の北西端部分が右電熱器に被さりその熱盤に接触したこと。

これに引続いて、被告人早乙女は、さらに炬燵の北側の座布団二枚をとつて前記座布団の上に積み重ね、次いで前記神山光子が、炬燵の東側の座布団二枚を前記四枚の座布団の上に積み重ねたこと。

その後は前記鈴木節子が右炬燵の毛布を外してこれを北側の内陣須弥壇の欄干に掛け、さらに、被告人早乙女が炬燵櫓を横にして炬燵内の火鉢の中を見て、立ち消え状態になつている炭火の上に灰をかけ、灰皿を片付けるなど、分担して帰り仕度を済ませてから午後四時ごろ被告人北原を真先きに当日の勤務職員全員がほぼ時を同じくして東側正面出入口より順次退堂したこと。

(三)  右の点に関し、<証拠>には、同人らは当日本件電熱器が前記控室の炬燵内で使用されていたことには終始気付かなかつた、というに帰する供述部分がある。しかし右各供述はたやすく措信しがたいばかりでなく、同人らは被告人北原が右控室内において本件電熱器の使用を開始したときおよび退堂に際しこれを片付けたときにはその場に居合わせず同被告人の右行動を目撃する機会のなかつたことは前記認定事実および同被告人の検察官に対する昭和三六年四月二二日付供述調書により明らかであり、さらに、右各証拠によると、職員控室の炬燵内で炭火の代りに本件電熱器を入れて使用しても、同堂の電圧が低い関係から、炭火を入れた場合に比し、必ずしも特に際立つて熱く感じるわけではなかつたことも窺われ、以上の点に、前認定の当時の炬燵内における本件電熱器と前記各男子職員らの座席との位置関係および前記の火鉢一個が入れてあつた炬燵内の状態を考え合わせれば、特にこれに注意を払うことがないかぎり、使用中の本件電熱器の存在に気付く可能性は少なかつたと認めることができる。

以上の点を考慮すると、前記の各証拠は必ずしも前段の認定に牴触するものではないというべきである。

次に、前記実況見分調書、同検証調書および稲葉勇進作成の「火災原因調査結果について」と題する書面によれば、右更衣室および控室内において電熱器用に使用し得るコンセントは前記更衣室入口の一個しかなかつたことが認められるところ、第一一回公判調書中の証人鈴木節子の供述部分には、右鈴木は、同日午後にわたつて引続き男子更衣室内にあつた前記一二〇〇ワット電熱器に薬罐をかけて通電使用し、退堂直前の跡片付けの際にコンセントから右電熱器のコードを引抜いて電源を切つた旨の、前段認定に牴触する供述記載があるが、一方では同人は、右供述に先立つ司法警察員および検察官の取調に際しては、この点について、「当日午前中より前記の湯沸し用電熱器を使用していたか、退堂前に右電熱器のコードを自分で外したかどうか明確な記憶がない」旨述べるなど、その供述が一貫性を欠いていることから前記鈴木の供述記載は前掲各証拠に対比しとうていこれを信用し難いものと考える。

第五本件火災の出火原因に関する弁護人の主張について

一弁護人は、当時薬師堂の電圧が低かつたこと、および被告人北原が本件電熱器の電源を切つてから被告人早乙女がこれに座布団を載せるまでの経過時間の双方にもとづいて、本件では右電熱器の余熱により発火し得る可能性はなかつた旨を主張しているので、この点について以下に検討する。

(一)  先ず被告人両名の前記各行動の間に置かれた時間的間隔の点であるが、右被告人両名の行動の経緯は前認定のとおりであり、さらに、当裁判所の昭和三七年四月一一日付検証調書および司法警察員作成の実況見分調書によれば、前記控室は南北に約三メートル、東西に約2.45メートルの広さに過ぎないものであつたこと、ならびに被告人北原の検察官に対する昭和三六年四月二二日付、同年一〇月一八日付、同年一一月二二日付各供述調書および被告人早乙女の検察官に対する同年四月二〇日付供述調書によれば、当時被告人らは午後四時の退出時刻が迫り、また右時刻ごろ同堂への出入口となつていた東照宮の表門も閉じられる関係上退出を急いでいたこと、がそれぞれ認められる。以上を考え合わせると、被告人北原が本件電熱器の電源を切つてから被告人早乙女がこれに座布団二枚ずつを二回にわたつて載せ終わるまでの経過時間は三〇秒以内かおそくとも一分以内にとどまつたものと見ても毫も無理はないと考えられる。

(二)  次に当時の薬師堂の電圧(受電電圧)を考える。

1 <証拠>によれば、薬師堂内で使用される電力は、日光山内日光社寺電気事務所内滝尾第一、第二発電所(自家用水力発電所)より供給を受けているものであること、右発電所の発電電圧(送電端電圧)は、発電用水の貯水量調整のため水車の弁の開閉や右発電所から受電する諸施設の消費電力量により左右される関係上必ずしも常に一定にしているものでなかつたこと、同発電所のこのような発電電圧の変化は、ほぼ一時間毎に同所のメーターから同所作成の発電所日誌(昭和三六年押第六〇号の一〇、一三ないし一五、二五、二六)に記録されていたところ、これによると、本件火災当日の昭和三六年三月一五日における発電電圧は、午後三時において二、七〇〇ボルト、午後四時において二、八〇〇ボルト、午後五時において二、八〇〇ボルトであつたことがそれぞれ認められる。

以上の事実と<証拠>を考え合せると、前記認定の被告人北原が本件電熱器の電源を切つた午後四時まえころにおける右発電電圧は二、七〇〇ボルトないし二、八〇〇ボルトの範囲内にあつたと断定しても誤りないと思われる。

2 次に薬師堂の受電電圧を左右する他の条件である、堂内の消費電力量(負荷)の問題であるが、稲葉勇進作成の「火災原因調査結果について」と題する書面によると、当時堂内の負荷設備としては、一五〇ワット白熱電燈三灯、一〇〇ワット白熱電燈四灯、六〇ワット白熱電燈、六灯、四〇ワット白熱電燈一灯、四〇ワット螢光燈二灯および二〇ワット螢光燈一灯があり、電気器具としては、前記のとおり、本件電熱器のほか湯沸し用一、二〇〇ワット電熱器および六〇〇ワット電気行火の以上合計三、七五〇ワットがあげられる。そして、以上のうち、当日午後四時まえころにおいて、湯沸し用一、二〇〇ワット電熱器は、前記認定したところにより、また六〇〇ワット電気行火は、第九回公判調書中の証人神山光子の供述部分により、いずれも使用されていなかつたことが明らかであり、他方、前記各照明用器具については、その全部が点燈されていたかどうか証拠上その点か不明であるから、結局、当日午後四時まえごろにおける同堂の消費電力量は、多くとも、本件電熱器と前記使用されていたか否か不明の分を含めた照明用器具全部の合計一、九五〇ワットを超えないことは明らかである。

3 そこで以上に認定した前記発電所の発電電圧および薬師堂の消費電力量にもとづいて同堂の受電電圧を考えてみると、この場合については、館野定弘作成の昭和三六年四月七日付鑑定書(以下「館野鑑定」という)においても、「内藤鑑定」においても、いずれも、この点には直接に言及するところがないが、発電電圧二、八〇〇ボルトの場合につき前記認定の薬師堂負荷1.95キロワットのときに最も近い「館野鑑定」の二キロワット、「内藤鑑定」の1.85キロワットのときの薬師堂の受電電圧の各鑑定結果は、前者が七一ボルト、後者が73.1ボルトであり、発電電圧二、五〇〇ボルトの場合につき、「内藤鑑定」の1.85キロワットのときの右鑑定結果は65.3ボルトである。そうすると当時の薬師堂の受電電圧は低くとも65.3ボルトを下ることはなく右65.3ボルトないし73ボルトの範囲内であつたと見て誤りないと思われる。

(三)  よつて、最後に、前示の電圧を加電圧として本件電熱器に通電した場合その電源を切つたのちコードを丸めて置いた右電熱器の熱盤上に座布団を載せたとき、はたして右座布団がその余熱により発火し得るか否か、発火し得るとすれば電源を切つてからどの程度の時間内において発火し得るかの点であるが、本件においては、前認定の電圧65.3ボルトない七三ボルトの場合に照応する鑑定は行なわれていないがただ電圧七五ボルトの場合につき、「館野鑑定」には、右電源を切つてから座布団を載せるまでの経過時間が三分以内であれば発火する旨の、三山醇作成の鑑定書(宇地刑第二〇五号鑑定嘱託書にもとづくもの)には、一分であれば発火し、一分三〇秒であれば場合により発火しないことがあり、二分では発火しない旨の、また「内藤鑑定」には、一分であれば発火し、一分三〇秒では発火しない旨の実験結果がそれぞれ示されている。また電圧五九ボルトの場合につき、「内藤鑑定」には、右経過時間が三〇秒では発火し、一分では発火しないとの実験結果が示されている。

よつて以上の鑑定結果に徴しても、電圧65.3ボルトないし七三ボルトの本件の場合でも、電源を切つてから三〇秒以内に座布団を載せるときは確実に発火し、三〇秒後一分以内でも十分に発火する可能性のあることを推認することができる。そうすると、被告人北原が本件電熱器の電源を切つてから三〇秒以内またはおそくとも一分以内において、被告人早乙女がこれに座布団四枚を載せ終つたと見られる本件の場合においては、本件電熱器の余熱により右座布団が発火したことについて、弁護人の主張するような疑いをさしはさむ余地はないというべきである。

二弁護人はなお次に列記する(一)ないし(四)の点をも主張している。

(一)  余熱のある電熱器上で座布団が燻焼した場合には、必ず右電熱器にタールが付着するはずであるのに、本件電熱器にはタールの付着が見られない。

(二)  本件電熱器上にあつた六枚の座布団は全体として上の部分がその四周を焼失したピラミッド状を呈して発見されているが、これは右座布団が本件電熱器の余熱ではなく、外部からの火力で燃焼したことを示すものである。

(三)  本件火災により控室と西側更衣室との境にある敷居上のレールが一部熔解しているが、これは同所が局部的に著しい高熱の作用を受けたことを示すものであつて、前記控室北側の焼燬個所も同様にして生じたものである。

(四)  本件火災の出火に際し薬師堂内部から爆発音が響いたことおよび鎮火直後の堂内床面の水溜りに油が浮遊していたことは本件火災が本件電熱器の余熱によつて発生したと見るかぎり説明し難い現象であつて、いずれも本件火災がその他の原因によつて発生したとの弁護人らの主張を裏付けるものである。

よつて、以下順次判断するに、

先ず、前記(一)については、「内藤鑑定」によると、電熱器上の座布団に外部から着火燻焼させても、内部から着火燻焼させたときと同じく右電熱器にタールの付着することが認められるから、タール付着の有無によつては、その座布団の燻焼が電熱器の余熱により生じたものか外部からの着火により生じたものかを判定することはできない。

次に、前記(二)については、司法警察員作成の実況見分調書同検証調書証人大野正雄に対する当裁判所の尋問調書によれば、司法警察員の本件火災現場の検証の際本件電熱器上に発見された座布団六枚が上部のものほどその四周を焼燬され全体としての形状がビラミッド形を呈していたとも見られる状況が看取され得ないわけではないが、右座布団は一旦内部から燻焼した後、本件火災が堂内全域に延焼する過程においてさらに外部からの火力の作用を受けたことはむしろ当然と考えられるから、この点の弁護人の主張も理由がない。

さらに、前記(三)については、右検証調書および押収にかかる引戸用レール断片三本(昭和三七年押第六〇号の二四)等によれば、右検証の際控室北側等から一部熔解した敷居レールの断片が発見されたことを認めることができるが、「内藤鑑定」によれば、右レールは摂氏八九〇度前後で加熱されるときは熔解するものであることおよび右程度の熱は木造家屋の火災において通常発生し得るものであることが認められ、従つて本件火災に際し右レールの熔解した事実があるからといつてその所在場所付近が異常に強い熱の作用を受けたとみることはできない。そのうえ、右控室北側付近の焼燬状態は、前記のとおり特徴ある燻焼痕を示し、単に外部からの高熱の作用のみにより生じ得るものでないことは明らかである。

最後に前記(四)のうち、先ず、爆発音の点について考えると、<証拠>によれば、本件火災当日の午後七時すぎごろ薬師堂内から自動車タイヤの破裂音とも聞えるような音響が響いたことは明らかであるが、右証拠によつても、それは本件火災がすでに堂内の前記出火点において発火し終り、堂内の他の部分に延焼してゆく過程において生じたものと認められるのみならず、第一回公判調書中の証人三山醇の供述部分によると、ガス入り電球が火災に際し加熱されて破裂し、その際破裂音を発することが有り得ることも認められるから、以上の点を考え合わせると、右音響は本件火災の出火原因と直接結びつくものでないというべきである。

また油の点については、証人関信夫に対する当裁判所の尋問調書および司法警察員作成の実況見分調書によれば、本件火災が鎮火した直後の前記更衣室の床面に放水された水が溜り、その表面に油が浮遊していたことを認めることができるが、前記実況見分調書によつても、右更衣室には油差しをはじめ種々雑多な用具物品が置かれてあつたことは明らかであり、この事実と第六回公判調書中の証人土田甲子の焼け跡に水が溜ると、往々油が滲み出たような外観を呈することがある旨の供述部分を考ええ合わせると、本件火災の焼け跡に多少の油類が浮遊していたとしても、直ちにこれを異常視してその出火原因に関連させて考えることは失当である。

第六法令の適用

被告人両名の判示所為は、いずれも刑法第一一七条の二(第一一六条)、罰金等臨時措置法第三条第一項第一号に該当するので、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人北原を禁錮一〇月に、同早乙女を禁錮八月に、それぞれ処する。

なお後記第七量刑の理由記載の事情を考慮し情状により右各刑の執行を猶予するのを相当と認めるので、刑法第二五条第一項を適用して被告人両名に対しこの裁判の確定する日から三年間右の各刑の執行を猶予する。訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用してこれを平分し、その二分の一ずつを各被告人の負担とする。

第七量刑の理由

前掲各証拠を総合すれば、本件火災により焼損した薬師堂は、別名を本地堂とも呼ばれ、寛永一一年から同一三年にかけて三代将軍徳川家光により東照宮本殿、鼓楼、鐘楼などとともに、徳川家康の霊廟として造営され、唐様様式を主とするその建築技法は、近世における建築工芸技術の粋を集めたものと称せられ、従来重要文化財に指定されていたものであり、その文化史上の価値は貴重なものがあつたにもかかわらず、被告人らの判示各過失から一朝にしてその内部全域をほぼ炭骸と化せしめ、屋根の中央部は崩落するなどまことに惨担たる結果を招いたものであり、幸いにして、昭和四三年四月に至り、約二億八〇〇〇万円の工費を投じてその復元をみたとはいえ、往時の遺構がこれにより旧状のまま再現されたわけではなく、本件火災による文化遺産の喪失はすでに回復するによしないものというべきである。

さらに、本件火災の直接の原因となつた被告人両名の判示各過失は、それ自体、いやしくも文化財の管理に携わる者として、最少限の注意義務にも違反する軽卒窮まるものであるばかりでなく、同被告人らの当日における勤務状態等を見ても、勤務時間中堂内においてあるいは飲酒し、あるいは花札遊びに興じるなど、平素の弛緩した勤務態度を窺わしめるふしが認められ、そもそも被告人らは文化財に対する愛護の念や保存の責任感を欠いていたのではないかと疑わざるを得ず、この点から見ても被告人らの本件失火はけだし故なしとしないのである。

しかしながら、ひるがえつて薬師堂の管理に任じてきた、輪王寺当局の同堂に対する従来の防火管理体制を見るに、これまた頗る不備、不行届きであつたといわなければならない。すなわち、同寺では、薬師堂勤務の職員らが火気を厳戒すべき堂内で冬期の採暖、喫煙または昼食の仕度などのため、炭火、アルコールバーナーまたは各種の電熱器等をほしいままに使用しているのにこれを黙認し、しかもこれらの火気の取扱についても、職員に対し有効な指導、取締の方法を定めてその徹底を期する等の見るべき規制の方策を講ずることもなく、結局は職員ら各自の不断の注意、心掛けに一任するに等しい状態であつたこと、薬師堂には本件火災発生当時火災探知器の設備があつたが、本件火災の出火箇所となつた控室内部には配管されておらず、この欠陥のために、右控室の壁や天井が熱気を遮蔽して探知器の作動を遅らせたことが推測されるのである。

なおこの点につき見逃し得ないことは、東照宮の表門が閉鎖された後の夜間において薬師堂の警備に任ずる東照宮側にも出火通報の遅延から損害の拡大を招いた疑いを免がれない点である。すなわち出火後間もなく火災探知器が作動して東照宮内の夜警詰所に薬師堂の火災発生を報知していたにも拘わらず、これを聞いた同夜の東照宮勤務の夜警は誤報であると速断して速やかに出動しなかつたために出火発見が遅延し、さらに発見後も単独で消火に当ろうとして直ちに通報しなかつたため本件火災は、貴重な初期消火の機を逸し、大事に至つたのではないかと考えられる。

このように見てくると、本件失火は被告人らの平素の勤務態度の面からも輪王寺当局の防火管理体制の面からも起こるべくして起こつたといつても過言ではなく、ことここに至つたについては輪王寺当局もまた火災防止のため当然とるべき措置を怠つたとの非難を免がれるものでなく、ひとり末端職員である被告人らのみに責めを帰せしめることはできない。

よつて主文のとおり判決する。(須藤貢 藤本孝夫 藤井一男)

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